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2001年宇宙の旅の宗教・映画に見る人間の未知への探究心

 映画は良く見ていたような気がする。大の映画ファンというわけではないけれど、成長の過程で映画から受けた影響はそれなりに大きかったと思う。僕が、最初に「立てなくなった映画」、つまり上映終了後に動けないほど衝撃を受けた映画は、スタンリーキューブリック監督の「2001年宇宙の旅」だった。

すでに多くを語られつくした映画なので、いまさら解説じみたこともしたいとも思わない。ただ、この映画の究極の真理は、「未知の真実の究明」となるのだろう。

宇宙というあらゆる生物や物資のゆりかごの中で、人間はどのように生まれ、生き、死んでいくのか、そして、生命は輪廻するのか。人間や生命を導いた神は存在するのか、などこの映画がもっているテーマは、おそらく人間の誰もが知りたいと深層で思っていることなのだ。だから、モノリスが登場してはストーリーを導いていくたびに、哲学の世界に引き込まれ、モノリスの意味を頭の中で究明し始まる。

おそらく、人間が知りたい最大のテーマを、観客に考えさせる、という手法で作られた映画はこの作品が初めてだったのだろう。だから、この映画が僕に限らず当時の思想に走った青年に与えた衝撃は恐ろしく強烈なものだった。とにかく、映画の最中に頭の中がフル回転しているのだ。理解しようとしてマバタキもできないほど、ストーリーに隠された哲学を理解しようとして精一杯だった思い出がある。

今思い出すと、やはりこの映画の凄さはそのテーマの見せ方にあった。映画には、「神の導き」「人間の生命の宿命と将来」の2点が明確に描かれていた。回答は与えられていない。しかし、そこには「見えないけれど、われわれを支配する法則」というものの存在を明確に定義した象徴(モノリス)が現れては消えていった。そして、人間がその導きに従うことで宇宙に生命をあずけるようにして戻っていくというストーリーは、ニーチェの哲学を基本にした展開とはいえ、完全なオリジナリティの映像となって、視覚と聴覚をともなって思考回路を刺激してきた。

僕は、衝撃を受けている自分自身に対して、驚いた。つまり、それほど普段意識していなかった神の存在や、人間の宿命的な宇宙との関係についての情報があまりに自分に衝撃を与えるということは、それだけ人間の基本的な心理のなかに、この遠大なテーマをどうしても知りたいという知的探究心が必ず潜んでいるということを自覚したからだった。ヘラヘラ遊んでいるような学生の自分であっても、それだけ極限の命題を提示されると、真理の前にひれ伏すということを理解したのだった。

そのとき思った。宗教はこれなのだ、と。

人間の元来の心理に潜む探究心、本当のことを知りたいという心は、まさに誰にでも備わっていて、その解答をくれる人を心から待っているということなのだろう。自分で悟りを開けるなら、それでいい。しかし、人間には神の手(導き)が必要であり、その解答がもらえるなら、その解答を与えてくれる人を神として崇拝できるということなのだろう。これが、キリストであり仏陀でありマホメッドだったのかもしれない。もちろん、彼ら宗教上の人物もいまだ実在したかどうかは不明だ。しかし、彼らを必要としたのは、世の民であったのだ。彼らは自分から説教をするために生まれきたというより、彼らを必要とする民のために現れたのかもしれない。いや、彼らを呼んだのが民だったのかもしれない。

宗教は宗教をとなえた人がいて出来上がっているのではなく、その教えを必要としている人間がいるからそこに出現してきたものなのではないのか?いや、もしかしたら、宗教とは単にそれを必要とする民がいて、単に教えを語る神の化身が最初から摂理によって用意されているのではないのか?それは人間という生物の単なる必然ではないのか?なぜなら、宗教という形の「未知の教え」は人間が単に生きるために必要としているから。
そんな感慨が頭を巡ってはしばらく離れなかった。

この2001年宇宙の旅は、あまりの衝撃度で僕は映画の概念すら変わった。しかし、そんな映画のことよりも、僕はこの映画で人間や宇宙の摂理を少し理解できたような気がした。それは、自分自身の体験をもって実感したことだった。そしてそんな体験は初めてのことだった。