アートの癒しパワー

ベートーベンピアノソナタ悲愴第2楽章の恍惚

 クラシックを演奏するにあたっては、「コピーする」という言葉は当てはまらないのだろう。もちろん、譜面で見て真似るように考えればそれはコピーなのかもしれないけれど、クラシックの演奏に関してはロックギターのコピーなどとは異なって、すでに名作を演奏することは、奏者自身が深い音楽の理解力と芸術性を持っていないと成立しない。だから、どんな作曲家の作品を弾くとしても、そのときは作品を最大限に今に蘇らせる作業を弾き手が受け持つことを要求される。クラシックの永遠の名作を通じての現代音楽家が今はなき天才たちと触れ合い、そして格闘する姿はやはり僕には感動ものなのだ。

僕にとってクラシック音楽はいつも必ず僕の中に大きな存在として位置を占めていたし、人生の影響といえばビートルズやビルエバンス、マイルスデイビスなどが登場ずるけれど、音楽の底知れぬ凄さを知るのはクラシックもやはり大きかったのだろう。

今でもジャズピアノも好きだし、よく自分でも演奏する。でも、心がなにか落ち着くときや、優しさや人間の深さなどに触れたときなどに僕は何故かクラシックに染まることが多い。人間の深さというか、喜びや悲しみを再認識したり人生の意味を考えるときなどは、クラシックの持つ人間の才能の美しさ、深さ、限界、そして喜怒哀楽の表現に一時であっても埋没してしまうことがある。単に演奏をCDで楽しむこともあるし、またピアノで名作を弾くこともあるけれど、僕にとって、なにか人間の力や未来の夢などを感じるときに演奏するのが、ベートーベンのピアノソナタ8番「悲愴」の第2楽章なのだ。

クラシックピアノはほとんどが高度な技術を要するので、とても技術的に追いつかないものはある。自分が弾きこなせるものの中で言えば、弾きながらその音色と自分の感情を表しやすい曲がいくつかあるけれど、この有名であり誰もが愛するであろう名作「悲愴・第2楽章」は僕にとっては、何故か自分の感情を整えてくれる最高の作品なのだ。それにしても、なんなのだろう。この優雅さと力強さ、そして弾くほどに心に暖かさと喜びと人生の哀しさをもよみがえらせてくるこの作品の力は…。深い美しさと、何かが終わっていくような人生の寂しさ、そして力があふれ来るような魂の喜び。この作品には、いつでも演奏するたびに自分の心がそのときそのままの状態で現れてくる。癒されるし、力もわく、そしてなにか心に灯火が見える…そんな感情の繰り返しを何度経験したことか。

僕にとって、モーツアルトは現実の世界から遠く離れていくような…言葉は正確じゃないかもしれないけれど、いわば幽体離脱のような感覚を体験する音楽。そして、ショパンやリストはそのピアノへの情熱と愛情がほとばしるような研ぎ澄まされた感性に出会う音楽。バッハが絶対的な才能の塊のような音楽でその才能に圧倒されるものであるなら、ベートーベンには僕は大きな人間の姿を見てしまうのだ。そして、ベートーベンの曲を演奏すると、そこに人間のもつすべての要素が僕自身に迫ってくるような感覚に陥ることがある。これも正しい表現かどうかわからないけれど、ベートーベンの音楽に接すると自分の等身大の姿が見えてくる思いがするし、それは自分にもわからない隠れた感情や感性に出会う機会であったりもする。

 ピアノソナタ第8番「悲愴」の第2楽章は技術的には僕にはなんとか弾けるから弾いているという選択の理由もあるだろう。けれど、では他に僕でも弾ける曲をいつも弾いて楽しんでいるかというと決してそんなこともない。自分の感情をなぜか優雅に穏やかにしてくれては、あらためて人生に向かい合う勇気をもらえる曲であることを、僕は知っているからこそ、ピアノを弾くというときに、頻繁にこの曲を選択しているのだろう。

この曲を演奏すると、自分の魂が語り始まる。「人生には様々なことが起こり、そしてそれは大きな宇宙の時間の中で静かに過ぎていく。だれもそれに気づかなくても、その出来事は僕の中でいつまでも隠れた記憶となって残り、そして僕の時間の終わりと共に、それは時空の彼方へと消えていく」…大袈裟でもなく、僕の魂は流れるようなベートーベンの音楽の中で僕にその人生の必然を思い起こさせるような気がしている。そして、その僕の奥深くに眠っている魂がこんなことを語り始めるのは、ベートーベンの音楽が魂に呼びかけているからなのだろうと思っている。